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コンパニオン・アニマルとの適正関係の模索―人間社会の希薄化において― ハル著
1、イギリス動物保護の歩み方
日本で伴侶動物が増加し、重要性を考えるようになったのは比較的最近のことである。その点で、アメリカ・オーストラリア・イギリスは進んでおり、見習うところが多い。特にイギリスは全体的に体制を整えている。また動物管理法の基は、イギリスの動物法であり、また、イギリスは日本の実情をたびたび指摘してきた。そのイギリス法を学ぶことは、これからの日本法への良策を盛り込める。以下、早くから取り組み成果が上がっているイギリスと対比させ、日本の問題点と解決の糸口を探ることにする。
@イギリス動物保護の体制
イギリスは動物愛護精神が早い時代に確認されている。動物への虐待は犯罪に値するという考えが早く芽生えた国であり、活動が積極的である。その活動が強い中でその中枢となっているのは、RSPCA(Royal
Society for the Prevention of Cruelty to Animals)という王立動物虐待防止協会であり、この非営利団体はアニマルポリスと呼ばれる。
1820年前後、馬やロバが交通機関の主軸であった時代、それらの動物たちは酷使され、その悲惨な状況を改善するための処置が考えられた。「家畜の虐待を取り締まる法律」が成立したが、取り締まる機関がなく、現状改善はほとんどなされなかった。
当時の国会議員のリチャード・マーチンは、私財を投資し、1824年に動物虐待防止協会を設立し、その積極的な活動に対し、1840年ビクトリア女王は王立の称号を与えている。この機関は当時娯楽のために行われていた動物虐待にも目を向け、犯罪との認識を強く持たせた。1911年には、動物保護法が制定され、多くの動物に適用するようその適用範囲を拡大した。そこから動物に与える苦しみは、すべて犯罪とみなされるようになった。しかし、設立当時の財政状況は厳しく、専従調査員も5人の状態からスタートした。イギリスは世界に先駆け、動物の存在意義を認め、動物に苦痛を与えてはならないと主張した。その後も動物に関する法律や規制が次々誕生し、動物愛護精神は一層の成長を見せる。現在、RSPCAでは、1700人ほどの職員が働き、年間140億円の寄付金から成り立ち、その60%は個人の遺産相続金による。イギリスでは、早い段階から、単なるペットとしてではなく、家族や社会の一員として扱われている。盲導犬にかかわらず、どんな犬も町のお店や公共の乗り物に乗れ、飼い主の躾や社会の責任を十分に理解している。
飼い主が動物に与える苦痛はすべて虐待とみなされ、市民からは1日に1000件ほどの通報がある。RSPCAの調査官がその通報によって現場へ急行し、その対処に当たる。通報の内容の多くは、犬猫が捨てられていること、近所の犬のほえる声がいつもと違うこと、近所の犬が太りすぎていること、飼い主が犬の健康管理を怠っていることなどである。そこから、いかに市民が動物に注意を払っているかが伺える。動物が保護されると、健康診断が行われ、獣医による処置がされる。保護した動物に飼い主がいない場合や、飼い主に責任能力がないと判断された場合には、動物は動物保護センターに送られる。保護センターは全国に11箇所あり、ここに保護された80%以上の動物が6ヶ月以内に新しい飼い主に引取られる。リフォーミングの割合は日本とは比べものにならない。
かつてのイギリスは、動物愛護と呼べるような国ではなく、狼を絶滅に追いやる組織的な狩や狐を殺戮するような時代もあった。しかし人間の豊かな生活を打ち立てようと模索した結果、現在では動物との共生が強く掲げられている。
意識の高さは、町の様子から具体的に紹介すると、ペットショップのあり方に表れている。イギリスのペットショップのショーウィンドウには動物はいない。1951年に制定されたペット動物法によって、動物は店の奥の飼育施設で管理されている。客のほしい犬種や年齢などの要望を聞き、家族の誰がどのくらい動物の世話に時間をかけられるか、また飼育環境は確保されているのかを確認し、その客が動物を飼える人間であるかどうかを判断する。その後、飼育施設に行き、動物と面会する体制を整えてきた。
青空市場での動物販売は禁止となり、ペットショップ経営は許可制で、12歳未満の子供に対しては販売を禁止している。 それは、動物が公衆の面前に晒され、狭いショーケースに入れられていることはストレスであるということからの配慮である。また、ショーウィンドウにいれば、一目ぼれから衝動買いをする場合もあり、それを防止するための画期的方法となった。
責任の重点を企業と個人の両者に向け、責任の徹底を鋭く考察した結果であると分析する。
イギリスでは、民間の意識が国の体制を変化させた。一部の人間が精力的に働きかけたことで、市民が積極的に問題に取り組んでいる。両者が主軸であり、お互いがフォローアップしている。
Aイギリス動物保護法の生成・展開
イギリスは動物愛護において、確実に進歩し、影響を国外にまで及ぼしてきた。近代的な動物保護法は19世紀初頭に出現する。中世では、主に狩場の鳥獣保護のため動物種を特定し、その捕獲を禁止する取り組みが行われていた。また、狩猟期と禁猟期を決め、鳥獣類の保護を図っていた。もっとも18世紀までは、狩猟動物の個体数を維持し、家畜の窃盗を防ぐための動物保護法であり、動物の福祉に配慮したものではない。この後に動物を個体として捉え、動物の保護を近代的立法として確立していくが、特に19世紀頃、急速に発達していく。理由の一つが、人間が超自然的に生まれるという理念に対する疑問である。人間は動物の直接的な子孫であり、その認識が広く一般化したことと解する。もう一つは、科学進歩が急速であることが、反面教師的に自然への関心を深く寄せるようになったことによる。この二つに加え、痛みに対する感受性が高まり、動物に対する配慮を深刻に捉えるべき時代に突入したと考え、動物保護法を生む原動力になった。
動物保護立法制定の動きは、1800年代初頭、牛いじめを禁止する法案が最初である。牛にブルドックをけしかける娯楽を禁止する法案で、当時の議員らの関心を引くほどの事案とは言えず、否決される。その数年後、トマス・アーキンという人物がその制定を画策する。その動物虐待防止法案の趣旨は以下のようなものであった。
「多くの有益な動物を、人間の支配と用益と安楽に従わせしめ、他人のための食糧を供給することは、全能の神のお喜びになるところである。そして、そのような動物を残虐に抑圧的に扱うことにより、その支配を乱用することは、著しく不当で不道徳であるのみならず、ひどく有害な手本となって、人間の自然な感情に反して心を非情なものにしがちであることは明らかである。」
このような意図を前面に押し出すことは、当初としてはかなり抜本的で改革的であった。動物そのものの苦痛を取り上げたものでなく、動物虐待による人心の荒廃に注目している。この念頭にあるのは、酷使される荷役動物であり、動物そのものは権利を持たないが、人間同様感情や感覚を持つことを確認している。そして、動物は人間に使用されるために創造されたが、虐待されるためではないと、主張内容を明確化している。上院は、保護対象を荷役動物に限定し、法案を通過させ、下院へ送付した。そこで反対討論が行われ要点が確認された。法案で処罰されるのは、動物の御者に限られる。つまり、下層階級に属する人間だけが処罰され、上流階級では狩猟、射撃、釣りといったものが許された。また法案は人間の道徳観に沿って立法化しようとするものだったが、人間性は法律によって強制されるのではないと非難の声が上がり、法案の条文では適用に困難をきたすと反論がなされた。この法案は27対37で否決される。翌年も再提出されるが、議員らの反応は前回以上に厳しく、自らその法案を取り下げる結果になった。
この後、アースキンの情熱を受け継ぐ地区選出議員であるリチャード・マーチンが出現する。そのきっかけはアザラシを飼っていた男の残虐な行為にあった。その男はアザラシを飼っていたが、自分の家畜が病気になった際、占い師にそれを相談すると、アザラシが不幸をもたらすと予言され、アザラシの目を潰し海へ放った。目が見えなくなったアザラシは海では獲物を取ることが出来ず、飼い主の元へ餓死状態で戻ったという。それまで自分の地区で動物虐待を厳しく糾弾してきたマーチンは、激怒し、このような野蛮行為を断固として処罰されなくではならないと確信し、1822年に動物虐待禁止法案を提出する。当時、人間の手足となっていた馬に関しては、特に請願が出されることが多かった。乗合馬車の所有者は、自分の馬が御者や召使によって不断に虐待され、損害賠償も取れないことを主張した。マーチンは、「馬とその他の動物に対する虐待を防止する法律案」を提出する許可を得る。彼は「その他の動物」という文言を加えたが、アースキンのように目的が不明確な法案を通すことを避け、馬に焦点を合わせた。検討の結果、「馬を、みだりにかつ残酷に打ち、酷使し、または虐待した者があり、それについて宣誓した上での告発が治安判事になされたときは、告発された当事者は、刑事訴追される」という法案を作成した。これは、委員会審議に提出され、3票差で委員会を通過する。文言の修正として、「雄馬、雌馬、去勢雄馬、ラバ、ロバ、去勢雄牛、雌牛、若雌牛、去勢肉牛、その他の畜獣」と具体化され、第二回読会が開催された。激しい反対論の中、賛否両論となったが、議長の判断からかろうじて継続審議されることとなった。第三回読会では、討論なしの賛否投票が行われ、賛成が過半数を制し、1821年に法案は上院へと送付される。しかし議会は新国王の戴冠式と、国王アイルランド訪問のため、程なく閉会が決定された。
再び家畜虐待防止法案を下院議会へ提出できたのは翌年であり、物言わぬ動物のための立法の困難さを強調するものが出てくる。具体的に動物の苦痛を前面に押し出すことは難しく、法案は、動物への虐待とは何かをいかに定義するかが問題となった。マーチンはそれに対しすでに禁止されていた「徒弟への過度の懲罰」を利用し、その批判をかわす。第二回読会、第三回読会を共に通過し、再び上院へ送付された。当時の国王は、マーチンの動物保護への努力を理解し、裁可され、「畜獣の虐待及び不当な取り扱いを防止する法律」を制定した。
RSPCAは当時王立ではなかったが、マーチンが設立運動の中心的役割を果たした。虐待告発のための調査員を組織し、法律の制定に伴い、その執行を担っていた。これがイギリス動物保護の特質であり、王立でない時代から積極的に活動に取り組む姿勢がある。それを指揮できる指導者の存在も強く、その後、他の動物にまで法律の範囲を広げることが出来る柔軟さと理解力を持ち合わせている。
イギリスの動物保護の展開を改めて確認すると、家畜という当時一番身近であった動物保護の必要性に気づいていたこと、動物を使う生活が虐待に繋がる環境でもあると注視していたこと、きっかけは伴侶動物であったアザラシであり、マーチンがじきにそれらの動物にまで保護を求めるという当初からの計画性がある。文化的視点に立つと、生活に密着した動物がいて、牛いじめなどのゲームが存在していた。また、使役動物が存在し、虐待が存在するという事実がある。
当時は、人間の誕生に関する疑問や生命の価値についての考えが深まっていた。また化学が進歩する評価に加え、痛みに対する感受性の高まっており、それらが価値観として定着していた。これらの文化、環境、価値観に基づいたほうの作成が重要であり、イギリスの法作成過程は、十分に熟考されたものである。協議を重ね徐々に作成されたものであり、確実にイギリスに根付く要因を持ち、その活用を成功させている。
2、日本動物保護の歩み方
イギリスが体制を作り、上手く運用していることを日本と比較すると、日本の欠点が浮き彫りとなってくる。イギリスの構造を見極め、日本と対比させ、日本に足りないものを確認する必要がある。
日本においても今日のコンパニオン・アニマルは、家族の一員として、パートナーとして、友人として、その存在価値を高めている。現在以前にも、動物に対する取り組みは、比較的早い時代から取り組まれていた。しかし、うまく機能せず、また行き過ぎた体制であったことが、現在の体制作りの取り組みづらさに繋がっている。その点を明確にし、今後発展すべき時の問題点を分析する。
飼い主の心情としては、必ずしも支配と服従という関係で成り立つものではない。人生の伴侶として共に生活しているという認識が一般的になりつつあり、伴侶動物の増加からも不可欠な存在であることを明言できる。しかしながら、動物に対する体制は現在でも成り立っていない。共同に生活し更なる健全な共生社会を目指し、人間と動物を保護するため、法律は非常に重要である。
@行過ぎた規制
現在の日本が足踏みをしているのは、日本の歴史にあると考える。現在のように、動物が重要視される時代に、抜本的な解決策がなく、それに積極的に取り組んでいかない理由はどこにあるのかを、歴史から確認する。
現代以前にも動物愛護の考え方は古くから存在しており、それは「生類憐みの令」に代表される。これは、江戸時代の第五代将軍徳川綱吉が1685年に発令したもので、その保護対象は、犬、猫、牛、馬、鶯、鷹、魚であった。生類の命を救えば、子孫万代まで繁栄するという仏教思想の影響を強く受けているものである。特に犬についてはもっとも厳重だった。
当時の江戸市中では、犬を食べる慣習が公然と広まりつつあった。自由奔放で、勝手な振る舞いをし、異様な身なりをする傾き者が、主人への忠誠など古い因習を破壊する目的があった。新しい人間関係のもとに生きようと行動するとき、仲間同士の結束の証として行われた。彼らの自己主張や結束を固める儀式として、犬の寄り合い食いを行う新奇な風俗を誕生させた。この反権力的風俗の弾圧を、生類憐みの令によって行う目的もあった。加えて、当時は米の生産高によって政治経済が決定されていたため、日本封建社会の維持に、肉食は忌み嫌われる必要があった。これ以前に、殺生禁断は仏教伝来以来、二十数回も禁止令が出されていた。しかしそれは大して守られることはなく、生類憐みの令の厳しい処罰でその徹底化を図った。犬をはじめ、生き物を殺、虐待したものは、死刑、島流し、懲役という罰則である。
ところがこのような愛護政策は人々の反感を買い、人命より動物の生命を大切にする悪法だと評価された。綱吉の死去に伴い、この法律は1709年に廃止された。その後、日本に本格的な動物愛護の法律は長く誕生しなかった。
その間もイギリスでは動物愛護法が考えられつつあった。特に動物虐待防止法は、この後も改良を重ね、その基礎を形作っていく。
日本とイギリスの法作成の過程における違いは明確である。生活になじむ倫理的な観点から作成されているか否かを考察すると、日本では国のための策定であり、その規制には無理があったと判断する。また、生類憐みの令は、仏教的な観点から発するものであり、その内容に具体性と現実性を持たなかった。そして上層部から圧力を含んだ命令であった。この失敗は、その後の法律や体制を消極的にさせてしまう原因となったと考える。これがトラウマとなり、活動意欲を減退させてしまった。その後しばらく、有効的な法律は出てこない。
A動物の法律が誕生
明治時代に入り、1896年、民法が作成されたが、動物に関する規定は第718条のみであった。動物の占有者・保管者の責任について、「動物ノ占有者ハ其動物カ他人ニ加ヘタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス但動物ノ種類及ヒ性質ニ従ヒ相当ノ注意ヲ以て其保管ヲシタルトキハ此限ニ在ラズ」と定められた。
この頃、独自に動物を保護する法はなく、1973年にようやく動物の保護及び管理に関する法律が制定された。目的は、動物虐待防止、動物の適正な取り扱い、動物による人間の生命や身体や財産に対する侵害の防止が中心であったが、この法律を活用して告発する例が少なかった。それに関する調査が一部の団体の少数スタッフに限られているため、十分に活用できる体制が整っていなかった。それに付随して、1975年には、犬及び猫の飼養及び保管に関する基準を総理府が告示し、その目的に終生飼養、給餌給水、健康管理、運動、保管施設、放し飼い防止、躾、訓練、悪臭など発生防止、繁殖制限などと具体性を持たせた。この他、各都道府県の保護及び管理に関する条例など、戦後特に1970年代には、動物保護に関するものが多く出現し、その活性化が期待された。
しかし、どれも役所的な管理に重点が置かれ、本当の意味での保護に実用性、実行力を伴った取締りではなかった。運用活用においては特に目立ち、過渡的で中途半端な野放し状態が、取り締まりの甘さを引き立てる結果となった。現在の動物愛護法でも、その運用は消極的である。
ようやく動物自身を守る法律を作るきっかけになったのは、他国からの批判であった。1973年に制定された動物管理法は、外国からのバッシングを原因に思案されたものであった。当時日本は、捕鯨問題において世界的に動物虐待国だという批判を受けていた。それがエスカレートして、日本は動物虐待国だという印象がついてしまった。実際、動物虐待は行われていたし、日本国内で保護に関する取り組みが未熟であったことは明らかである。特にイギリスは動物愛護国の立場から、日本へのバッシングは強かった。
イギリスは動物に対して謙虚な姿勢がであったので、イギリスからの訪問があると、動物問題について責を問われることになる。そこで日本は動物愛護精神が強い国であるということをアピールしようと、その対策に追われていた。
国内でも、動物虐待に対する問題が注目されていた。1950年頃から、動物虐待防止要綱を法律化するための運動が数度起こり、動物愛護家の存在を主張していく。しかし、この時期は未だ動物愛護や適正飼育に社会的関心は少なく、1965年前後の咬傷事件の発生が社会的問題となり、取り組まなければならない状況へと変化した。この時期、天皇の訪英が目前に迫っていたことから、動物管理法という動物独自の法律を作り、日本人の動物愛護精神の強さを国内外に示すことが大切と考えた。
B機能しなかった動物法
この法律による具体的実用性は乏しく、これを使って厳しく取り締まることは、最初から考えられていなかった。動物愛護に関する基本的な法律という程度の概念で、規定の多くが抽象的で努力義務の程度であった。なので、この法が実効性を持たない、無意味なものであるのは当然である。法律を作ったという建前は成立し、面倒な活用内容については確立せず、都合の良い法律となった。当時の日本政府にとっては、国内外にアピールする程度のうまく作られた法律だと解釈されている。
また、動物管理法はどこの省庁も管理しておらず、自分の省庁の利益には結びつく法でないので放置状態であった。引取り手のない法律は、総理府の管理室で所管することになっているので、そこに預けられた。施工費も十分でなく、役に立つ法とはいえないものである。
そもそも、日本と西欧の基本的な違いを検討すると、これまで日本には動物保護法立法が少なく、活用の度合いが少ない。また動物愛護団体の希薄さが、いまひとつ動物愛護精神を押し上げることが出来ない。
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